其四十七

合掌、ありがとうございます。

普段の生活の中でふとした瞬間に色々な想いを巡らす時があります。自分は何にも引っ掛かっていないか。何に対しても執着をしていないか。自己の勝手な物差しによって物事の善悪を判断し、優劣をつけていないか。そしてその結果、自縄自縛に陥っていないか等と考え込んでしまいます。

昨日、『生長の家青年会 東京第一教区青年会西南地区』におきまして第一回目の学習会が開催されました。僕は派遣講師として来て頂いた教化部長先生に、“久遠の今を生きるのにはどうしたらいいのか”という質問をしました。先生は正しき神想観を先ず何よりもおすすめ下さいました。神想観をする時に特に気を付けておくべき点は“呼吸”と“姿勢”であると仰っていました。呼吸は常に複式呼吸を心掛け、姿勢は背筋をピシッとして、斜め上を観る感じで顔を少し上げますupwardright 背筋が曲がり下を向くのは、今現在、何か現象的なものに囚われている可能性があるのだそうですdownwardright そしてまた音楽・芸術鑑賞もおすすめ下さいましたart 何も考えず、余計な知識を思考に介在させず、口頭に感想や意見を出さないのがポイントだそうですnote そして結果、それらは右脳を刺激することに繋がります。左脳を使い理論でもってして、時系列で物事を判断していたのでは、右脳は活性化しないのだそうです。このように神想観を正しく実践し、右脳を活性化していくことで、五感(五官)・六感を超えた瞬間を観じることができ、またその回数も増えるようです。他の人からも色々と質問がありましたが、先生は基本的には神想観をおすすめされ、その大切さを懇々と説かれていました。そして自己の中でさらに現象で習った神想観という一つの坐禅観法ではなくして、それにも引っ掛からず、それを超越した神想観を行じていきたいと感じましたsign01

そして結局、私たち神の子・人間は未だ嘗て実相においては何にも引っ掛かっていないのが真実です。現象における善悪・優劣や現象界において消え行く運命にある最高価値のものにさえ引っ掛かった事はないのです。私たちは、はじめなきはじめから神により出発し生じたもの、すなわち真・善・美を完全に備え、実相(そのまま)を顕されたものだけに包まれているのですconfident 美辞麗句を並べその通りに我の力で生きても、口先だけで実際生活が伴わなくとも、論理によって打ち負かし、打ち負かされてもやっぱり神しかなく、真理しか実存として適わないのです。現象(偽象)を否定し、投げ捨てた先に、ただ残るものこそ神であり、そしてそれは縦横無尽・尽十方・東西南北・四方八方、すべてのすべてを隅々にまで普く輝かせ続ける御光なのですshine

ありがとうございました。

再拝

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其四十六

合掌、ありがとうございます。

皆さんはどのような日常を過ごされているでしょうか。夢や目標に向かって一直線に生きていますでしょうかupwardright 希望に満ち溢れた一日を送っていますでしょうか。人それぞれだと思います。私たちはより幸福になる為に生きています。人生の意味・意義とは、ただその一点に集約されていると云っても過言ではないでしょう。

しかし僕も含めて殆どの人は、ただ時の流れや社会の渦に身を任せて、その日その日をただ過ごしているだけです。Time is Money.(時は金なり)という言葉がありますが、私たちは時間を自分たちが思っている以上に空費してしまっているのではないのでしょうかclock 自己の目指す方向へしっかりと向かっているでしょうか。知らず知らずのうちに在らぬ方向へ漂流してしまっているのではないでしょうか。神という唯一の道しかないのに、ああでもない、こうでもないと必要以上に悩みもがいているのではないのでしょうか。日々歩む中、何か腑に落ちなかったり、手応えがなかったりというのは、やはり神の御心に適わない生き方をしている何よりの証拠ですcoldsweats01

現象という有りもしない舞台で自作自演して踊る時代はもうとっくに終わったはずです。とにかく覚醒めましょうshine 実相の御手に一発気合を入れてもらいましょうpaper 何を置いても、神意第一で生きたいものです! 第一義のものを第一に。私たちが神を知る前から、神は私たちと常住完全にい給います! 神を知り真理研鑽に励み、時に信仰の壁にぶつかったとしても、相変わらず神は私たちと共にい給います! 神を忘れるくらい歓天喜地しても、私たちの中で神は共に悦び踊り跳ねられてい給います!

自信を持ちましょうhappy01 本物の信をその掌中に摑みましょうpunch 私たちの純粋なる願いは、神の御願いと完全に一致しています! そういう神の子・夢人がこの地球上でそれぞれの個性を遺憾無く発揮する時、はじめて人類の無限の進化・進歩・向上・発展が可能になり、並行して神の理念が明らかに現成されるのですscissors

ありがとうございました。

再拝

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其四十五

合掌、ありがとうございます。

今日は久しぶりに聖典講義を受講しに行きました。講義形式の真理研鑽もやはりいいものですscissors 青年会で皆と共に活動をするのもいいのですが、個人的に講義に足を運び学ぶことも青年には必須であると感じましたbook 本部講師の先生の発する一言一句から色々とインスパイアを享けshine 現に今、自己に関係する事柄の解決の鍵が至る処に指し示されているとも思いましたkey 次に掲載するのはその時、僕が取った講義のメモですbookpen

自動販売機には色々な種類のジュースが沢山ストックされ販売されている。今は電気が通っていなくて購入することは出来ない(当日は自動販売機が故障していて、電気が入っていませんでした)。人間も同じく自己の内に沢山の宝を蔵しているが、それらに気付かなければ無いに等しい。まさに自動販売機に電気が入っていないように、その人には神の子というスイッチがONの状態になっていない。『聖経 甘露の法雨』にあるように人間は神より出でた光である。私たちの心=神の御心なのである。その心のままに生きることが出来れば、それは神の子の人生であり神生である。

私たちは自分の心の周りに色々な価値観を何層も塗り覆っている。それは魂の歴史や前世・過去世や今まで生きてきた人生の色々な経験・体験を通して形成されたものである。仏教ではそれらを業・我・仮我・現象我と呼ぶ。しかしそれらは結局、現象のものであり無いものである。私たちに最初から在るものは実相すなわち神の子・仏の子という事だけである。それのみを“生まれつき”持ち来たし、常に心の内に宿しているのである。そして人間は神の展開であり、それに伴って様々な個性を持ち表現する特性を把持している。

単なる現象的な成功は真の成功ではない。真の繁栄は神の子を生きることであり、個性を発揮することである。人間関係もその見える表層部分で付き合うのではなく、心(=神・仏・神の子・生命・光・魂)で関係を築き、付き合っていく。そのまま(素のまま)で生きる、自我の信念で生きる必要はない。自我が芽を出すから競争原理がはたらき、弱肉強食の様を呈し、敗北という結果を招かなければならなくなる。物質や外から取って付けた価値、心の周辺部分にのみ己の身を置くことも原因の一つである。天理教祖はそれを心に積もった埃と表現し、その正体は「惜しい・欲しい・可愛い、欲と傲慢」であると仰った。

生長の家が一貫して取り扱っているのは実相の心のみである。イエス・キリストの「天に向かって富を積め!」とはまさにこの事である。そして実相が完全に生きれば常に必勝である。全勝無敗である。たとえ他人からの誹謗・中傷があったとしても、神の子の実相は決して傷つかない。人間・神の子の歴史上、その神性・仏性が傷つけられた形跡は一度もない。神の家・生長の家はどんな暴風雨や天変地異が起きてもビクともしない。常に難攻不落の巨城の如く不動である。

何か問題があっても解決策は自己の内に既にある。そこから出発したものだけが、すべてを解決可能為らしめる。それには実相を生きる覚悟が必要である。しかし自己が現象上の一個人として存在し、そこに立ち竦むならば、悩み苦しみ悶えなければならない。八方塞であり、それこそ取り返しのつかない事に成りかねない。

「吾、世に勝てり」の吾とは愛であり実相である。それが私たちの本性・本質・正体である。だから只々悦び勇むだけである。その真実存在を悦んでいると、自ずと私たちの周囲に真・善・美が展開し、そのような環境が顕れてくる。もっともシンプルな道は実相の心を悦ぶことである。その実相の心・神の心を植えつけてくれたのが私たちの父母である。

現象は捨てればよい。捨てると、在るものだけで生きることになる。それが神生を生きる事と直結するのである。50年、100年と時間の経過と共に消えて無くなるものは本物ではない。だから無いものをいつまでも相手にしていては駄目である。悪いものが出て来たらそれは迷いの自壊作用であり、これで善くなると自己に言い聞かせればよい。信仰を持っている者の強さが此処にも証明される。

人間・神の子とは生長の家の信徒だけでなく、何かしらの信仰を持っている人だけでもなく、全人類のことである。人類は尽十方無碍光如来の顕れでもある。もし怒りが出てきても、それを無下に否定するのではなく、その言動・行動の根底には愛があり、愛を基にし、愛から出発していると思い、それを善かれと感じ、その愛を認め評価してあげなければならない。それがまさしく神が生きて、神が動いている何よりの証拠である。そして本当の意味で反省することが出来る。

神の道は神の御心・御意を生きることであり、随所にそれを表現していく。そして既に自己内奥に宿された能力は出せば出すほど開発され大なるものになり、私たちが自覚すればするほど出て来るのである。

【感想】

先生の御講義を拝聴している最中、何か無駄な力が抜けていく感じがしましたconfident 閉じていた心の窓、神眼を開いて下さった感じも受けましたeye 実際生活と表裏一体を為す求道探求をさらに真剣にしていきたいと思いましたpunch

ありがとうございました。

再拝

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其四十四

合掌、ありがとうございます。

人は皆それぞれ色々な想いで生きています。宗教一つ取って見ても、数多あるそれらの中から一つ選び、そこで色んな想いや理由で信仰生活に励んでいます。心の法則により、ある人が一見悪なるものを自己に引き寄せて、それらを現象界に現したとしても、こちらが真理を学び理解しているとはいえ、その様な人たちを真理でもってして即座に一刀両断をしてはいけないと思います。ある人は生長の家で否定されている、“我”の力で懸命に生きているのかもしれません。人はそれぞれに個々に事情があり、背景があり、色々な魂の遍歴があり、前世や過去世からの習慣や癖もあり、悪業や悪因縁などもあり、一つ問題を取って見てもその要因は多岐にわたります。

現象世界においていかにも的確で正解なものでも、実相世界から観れば疑わしいものはこの世に沢山あります。現象界で正確なものも実相界では正確ではないことが間々あります。私たちは善悪の基準・判断・裁判の剣は誰一人として持ち合わせていないのです。敢えて言うならば神のみがその剣を持つことを許されています。しかし神の内には善に対する悪なるもの、相対的なもの、比較的なもの、対象的(対照的)なものや二元的なものは決してなく、神は絶対であり、無二であり、無双であり、善一元の完全円満なる真実存在で在られますsign01 なので、すべての事象や物事に対して理論や理屈では解くことは不可能です。勿論そういった理論や知の部分も大事ですが、それと同じくらい慈悲・同悲や慈愛の心も大切であります。人生のそういった場面こそ、私たちはその相手の方を通して仏身や仏性を自然に引き出すことが出来るのですconfident

何度も申しますが、真理などで何でもかでもスッパリと冷たくあしらったり、切ったり、裁いてはいけません。それは深切(親切)でも何でもありません。真の神の子は御祖の如く、すべてを温かく抱擁・包含が出来るはずであり、それが出来てはじめて人類皆兄弟姉妹・自他一体の感を心の底から声高らかに叫ぶことが出来るのですup

神は今もなお、色々な表現方法を駆使され、様々な角度から私たち人類をその内奥から光明燦然と輝かせて下さり、私たちが神の子として自由に思う存分この人生の最高のステージ上で勇躍もさせて下さっていますnote 私たち一人一人は済度からの衆生であり、浄土からの菩薩であり、天国からの天の使いであります。既に救われ済であり、浄まっており、天に永住する者なのです。だからこそ助け合い、励まし合い、共に天の遊歩道を愉しく歩むことが出来るのですhappy01

ありがとうございました。

再拝

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其四十三

合掌、ありがとうございます。

最近は地元の先輩や友人の結婚、青年誌友の方々の出産や出産予定などが多くあり嬉しい限りですhappy01 善男・善女が神の名の下に結ばれ、神の子と神の子から新たなる神の子が、この世に大いなる希望を把持し、さらなる夢を描き叶える為に生まれる事はまさに神の御心であり神意でありますshine

生長の家ではよく“魂の半身”という言葉を聞きます。僕はまだそのような方には巡り合っていませんので、まだ自分にはこの感覚が判りませんcoldsweats01 相愛会・白鳩会の先生方や青年会の先輩方がよく仰るのは、“この人だ!”と、ビビビっときて、結婚にまで至る相手こそ魂の半身のようですthunder 青年会のある先輩などはお付き合いをしている方と結婚をすべきか真剣に考え祈った時に夜空に流れ星が流れたみたいですhappy02 ロマンチックですね~note

しかし一般的に男女の交際というものは自分の都合や条件に当てはまる相手を見出し、交際が始まり、恋愛期間中が最高点で、結婚の段になると急速に冷めるだけのケースが多分に見受けられます。近年の日本における離婚の増加率には凄まじいものがあります。欧米のそれを凌ぐ勢いです。ある時僕の母が、“特に最近の若い世代を見てみると、子供が子供と結婚をし、子供を産んでいるような感じを受けるね。”と、言っていました。また、ある本部講師の先生は現代の大人は一人一人が充分に成熟していないので、そのような様々な問題に展開するのだと仰っていました。そしてまた近年の日本の社会をよく観察してみると、男性・女性の関係において陰陽が逆転している感もありますrecycle 特に都市部に暮らす人たちにはそれが顕著に現れているのかもしれません。

先行きの見えない不安定な社会の中で日々闘い続け、過度の重圧と色々な面で余裕の無い生活を強いられています。そして男性は意気消沈気味で、格差社会に翻弄され、経済的・階層的格差ならまだしも希望格差まで出ている始末ですdown その逆に女性は男女雇用機会均等法・男女共同参画社会基本法に煽られてか、男性を押し退けどんどん前に出てキャリア・ウーマンとなり、結婚などはそっちのけで子供もいらないといった感じです。都会で一人で闘い貫かなければいけないので背水の陣を敷いて事に当たっていますから本当に強いですpunch 歪んだフェミニズムが横行し、子供を産まないのも立派な女性の権利だと主張もしていますsweat02 僕も自分の仕事を通して少なからずそういった女性を目の当たりにします。しかしこれは僕の勝手なレッテル貼りかもしれませんが、そういった女性たちには一抹の寂しさが雰囲気として漂っています。結婚はしていないといっても恋愛はしていると思いますが。私たちは父性・母性を発揮する機会を見す見す取り逃がしていますbearing

色々なものを手に入れたとしても、それらはやはり現象であり消え行くものなのでしょう、決して満足は得られません。しかし判っていても次の瞬間にはそれらを追い求めてしまうのが現象界に生きる私たち肉体人間の悲しい性です。神の子らしく当たり前に生きる尊さや大切さの重要性を、現代社会の中心に生きる私たち大人がもっとよく考え理解しなければなりません。『生長の家 白鳩会総裁』谷口 純子先生も今年の生長の家青年会全国大会におきまして、“当たり前”のありがたさをお説き下さいました。神意に沿った生き方をすれば自然にしっかりと生きられ、それ以上に私たちは神やすべてに生かされていると感得でき、魂の底から悦ぶことが出来るはずです。『生長の家 初代総裁』谷口 雅春大聖使も、男性の成功・不成功はどのような女性を妻として迎え入れるかで決まり、また女性の人生の明暗もどのような男性の処に嫁ぐかで決まると仰っています。

いずれにしろ、歴代の総裁先生方は皆、結婚をし家庭を持たれています。有難い事にそのような素晴らしい参考例が私たちの目の前には敢然と示されています。訳や理由や理屈は要りません。ただ神の子として生き、生かされているだけです。神に全托するのみですsign03

※1

『この世界は陰と陽とで生れ、保たれているのでありますから、この陰陽の調和なくして絶対に好くなることは望めないのであります』

ありがとうございました。

再拝

※1 『魂のめぐり逢い』 藤原 敏之

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Vagabond ②

合掌、ありがとうございます。

“ネームづくりは山登りの様なもの” ネームづくりによってその作品の完成如何が決まるようです。ネームは漫画の骨の部分になるので、そこが駄目ならどんなに絵を頑張っても善きものは出来上がらないみたいです。井上氏のネームをつくるその姿は山登りというよりは山籠りと表現したほうが正確かもしれません。氏は日常(現象世界)から離れて、漫画という完全なる“一”の世界に入ります。まさに只一つの道を真っ直ぐに歩み、神の様々な表現方法の完全一を体現・具現しています。

氏は42年間の人生で一体幾つの山を登り越えて来たのでしょうか。何合目に今はいるのでしょうか。氏はさらなる高みへ、未だ見えないその頂を目指しています。日常を通して人生という山登りをしているその姿からは種々諸々の人間味が滲み出ています。既に氏の作品は漫画を超えて“漫画道”になっています。

関ヶ原の戦い後の江戸幕府初期を舞台に、只々強さだけを、天下無双を追い求め戦い続ける新免 武蔵、2021世紀に渡りアトリエという戦場でペンという剣を振るい続ける井上 雄彦、両剣士は活人剣を知得・体得し、そして最終地である無刀剣に至っていますpaper

「何故俺は生まれたんだ」「生きていいのか」(バガボンド 第2巻より一部抜粋) 誰もが一度はぶち当たる問題です。しかし神は常に様々な人を通し介して、色々と手を変え品を変え、ただ光一言「いいんだよ。いいんだよ。そのままのお前でいいんだよ。」と天の微笑と共に降り注いでくれていますshine そしてその最たるものはやはり私たち各々の両親でありますscissors 無条件の愛の表現を世界で一番可能ならしめている存在でありますconfident

“手に負えないことをやる” 氏の仕事の流儀の一つであります。私たちはふと気が付くと自己を限定してしまってはいないでしょうか。出来ることも出来なくなってしまってはいないでしょうか。持越し苦労・取越し苦労の魔手に犯されてはいないでしょうか。神の子・人間の自覚忘却が甚だしくはないでしょうか。氏は7年ほど前から絵を描くときにペンから筆に変えています。変化と挑戦の繰り返しです。自己保全など更々ありません。

「筆に任す、筆のやりたいようにいくっていう感覚が強い。」 私たちは生長の家の尊貴な御教えを既に頂きました。神に全托をもって生かされている素晴らしさを知りました。神にお任せし、神のやりたいようにいく処、そこに肉体人間や我などが介在する余地は微塵もありません。あるのは実相身である神の子が光明燦然と存在しているだけですshine これからもそれぞれの現象の舞台で様々な表現をし、真象なるものを生み出しましょうnote

ありがとうございました。

再拝

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Vagabond ①

合掌、ありがとうございます。

先日、『NHK プロフェッショナル 仕事の流儀 file:126 漫画家 井上 雄彦』を見ましたtv 僕も井上作品隆盛期に思春期・青春期を送った少年の一人ですhappy01 「SLAM DUNK」から始まり、今に至る「バガボンド」まで井上作品のファンの一人ですnote

番組は約1年間に及ぶ密着取材の模様を放映したものでした。井上氏の1週間は①ネーム ②下書き・筆入れ ③背景(分担作業) この3工程の繰り返しであります。このたった3工程の繰り返しの日々の中、そして17年以上の漫画家人生で発行部数14千万部を叩き出した「SLAM DUNK」、現在連載中の「バガボンド」、そして「リアル」というすべての作品がプラチナ級のスマッシュヒットを連発していますup 僕が愛読しているバガボンドは宮本 武蔵が題材になっています。原作はあの吉川 英治の『宮本武蔵』です。余談ですが吉川 英治は『宮本武蔵』を執筆中、生命の實相を読んでいたとのことです。その生命の實相の流れが吉川 英治から井上氏に流れ込んで、6千万部に迫るこのヒット作品を生み出したのでしょうか。

氏は「SLAM DUNK」では高校生のPureな情熱を、「バガボンド」では人間の暗部を掘り下げて描き、人間はどう生きるべきかを問い続けている作品になっています。一見すると両作品は対極に位置しています。氏の作品は読めば読むほど、人間がその人生で当たり前にぶつかる諸問題を素直に漫画という媒体を通して表現されていることが明瞭に判かります。“漫画界の生きる伝説”と呼ばれて久しくない氏はその呼名とは裏腹に作業中、口を真一文字に瞑り、黙々とペンを走らせています。その淡々と作品に取り掛かる姿がある一線を超越すると、氏の人間力、生長の家で云うところの人間・神の子無限力=神力が爆発向上し、作品に如実にその御力が顕れているとつくづく感じますshinebookshine

僕も自己の真理研鑽の為、当ブログを読んで下さる皆さんの為にも無限力の出し惜しみをせず、本物を少しでも垣間見て頂き、僕の文章や文言を各々で解釈・咀嚼してもらい、少しでも皆さんの魂の向上や訓練の一助になり、悟りの道や人間・神の子の大自覚の境に達することに寄与できれば嬉しい限りですhappy02 だからこそ井上氏のように僕も真理を語り伝える為にペンを止める訳にはいきませんpen さらに無限生長させて下さいup

ありがとうございました。

再拝

Vagabond

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其四十二

合掌、ありがとうございます。

923日(水)午前10時から、東京・原宿の『生長の家』本部会館ホールにて「布教功労物故者追悼秋季慰霊祭」が執り行われました。当日は僕も参加させて頂きました。生長の家総裁 谷口 雅宣先生・白鳩会総裁 谷口 純子先生のお姿を近くで拝見し、お話を直に拝聴できる事は本当に有難い事だとつくづくそう感じましたconfident

総裁先生のブログ『小閑雑感』にも既に掲載されているように、先生は求道と伝道のバランスの重要性に関してお話されました。そのお話の中で僕も求道と伝道に関して考えてみました。

確かに求道一辺倒でいくならば、頭を丸めて出家をしたり、山籠りをして俗世間を絶って修行に励んだり、修道院に入り清廉な生活を送ったりと、昔から古今東西各宗教において幾らか方法はあります。また求道のみで自己の悟りの為だけに生きていくのは至極小乗的で、一歩間違えれば野狐禅に陥るでしょう。そしてその反対に伝道や組織運動のみではその伝えるべき真理の知の部分が疎かになり、実際に何も知らない初耳の方々に真理や教えを伝える段になったらどうすればいいか分からず慌てふためく事になりかねません。

そういった意味でも日々の生活の中で聖典を拝読し、真理研鑽に勤しみ、組織運動にも自分が出来る事からさせて頂く、またもし何かのお役が自分に舞い込んで来たならば、笑顔で拝と素直に承諾することですscissors

事実、僕も今は学生の頃のように時間に余裕が有るわけではないですが、神想観は実践し、時間を見つけては聖典を拝読したり、出来る限り聖経を読誦したり、日常を通して愛行をしたり、当ブログを作成したり、また仕事が早目に終わった日は待ち合わせをして当月の誌友会の打ち合わせやこれからの誌友会の内容の企画・提案の計画を作成したりしています(実際はその名目でご飯を食べながら談笑しているだけですがcoldsweats01)。何かの行事の役目が当日ぶっつけ本番になることが想定されても受けるようにしています。

谷口 清超前総裁先生の「時間はつくるもの」の御言葉が自己の内から沸々と湧出し、またそう実感しておりますshine はっきり言って、今のほうが生長の家に懸ける情熱とやる気は学生の頃より断然あり、また個人的には充実した青年会活動を積極的にしていると思いますpunch 多分ですが・・・・・sweat02

まず自分の身近な人から伝道していけばいいと思います。そして新規開拓をしていくのに持ってこいなのが子孫繁栄だと思います。自分たちの子どもにみ教えを伝えていく、これほど親に孝行・先祖に供養・神に絶対的信仰を示し、理に適った素晴らしい伝道方法は他にないと思いますgood 次の聖書の句にある通りです。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』 創世記 1:28

そしてまた家庭を持ちそれを維持し繁栄させていく事ほど最高の求道の場はないでしょうnotes

求道・伝道のバランスを取りつつ、これからもうまずたゆまず励んでいきたいですsign03

ありがとうございました。

再拝

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其四十一

合掌、ありがとうございます。

自己の中に何が立っているか、自分の生活の中に何が生きているか、凄く大事なことです。これがズレたり外れたりすると、自己内奥から出でたものではなく、外により良きものを求め得なければなりません。そうなると自分に合った宗教の遍歴の旅にまた出掛ける事になりますfootsweat01 私たちは長い永い魂の巡礼を通して、もう宗教や哲学のあの蜘蛛の巣のような複雑怪奇さは結構であると各々の心の内に、またその表層にそう宣言していると思います。またそういう人は生長の家でなくとも別によいのです。それでは生きる、否すべての基礎に成り得る宗教がただの数多ある趣味の一つに成り下がってしまいます。

神を基に、神から離れた生活は地獄であり苦しいものです。生きた感じがしません。いつも不安に襲われ、心は恐怖で満たされます。地に足が着かずフラフラ、ふわふわしています。振り返らなくてもよい過去を、決して無かった過去を振り返り、罪の子を自動的に再認識させられますcoldsweats01

しかし人間・神の子は元々そう出来ていないので、例えそのような過ちが大きくとも、その反動で神のもとに瞬時に帰ることは出来ます。なぜならそういう人は真理に神の愛に渇望しているからです。これはまさに大生命への帰命であります。しかしその間隔が余りにも長いと、神の国に帰る道中は荒波に立ち向かうような感じになるかもしれませんwave 辛酸を嘗め、艱難辛苦に出合うかもしれません。それでも神は私たちの傍にいて下さいます。その希望に胸を膨らまし、その光だけを観ていきたいものです。日時計主義の真髄もそこにあるのではないかと思いますshine

宗教真理を真摯に学び、宗教生活を幼子の心のように笑顔で拝の精神で営み、紛失した神の御国の住民票を天の使いに再発行してもらい、是が非でも再取得しましょうticket

ありがとうございました。

再拝

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其四十

合掌、ありがとうございます。

“現象はない!” この意味はよくよく考えると凄いことであります。現象なしの一言はただの頭脳で思考した後の産物ではありません。単なる啓めきでもありません。天からの一大真理でありますshine その天啓は厳かであり且つ丁重に扱わなければなりません。軽々しく口に出せるものでもありません。悟りに近い人、また悟った人ほどその意味深さを噛み締め理解し、簡単に言葉に出すことを慎み躊躇うでしょう。

はっきり言って僕は現象世界(偽象世界)にどっぷり浸かった日々を送っています。124時間のうち23時間は五官・六感の無明に引っ掛かっております。99%現象の幻想に惑わされつつ、何とか1%くらいは実相の真象に導かれています。“現象はない”という事を現象のど真ん中において、現象の相対比較対象の此岸に立つこの愚者でも、実相の真っ只中においては“現象なし”という一滴をもった聖賢者でもあります。360度の廻転(廻向)は目の前のいつもの風景や環境に対して特に変化に富むものは一切何も提供しませんが、しかし常に眼の内、内なる心を神の御国に振り向けると瞬時にその内眼が神眼となり、内心が神心となります。そして日々神に振り向く事が日常化し、その回数や頻度が増えると、その間と間のインターバルが短くなってきます。

I swear to God.(私は神に誓って。) 欧米人はこの文の意図するところを歴史的・文化的において日常生活に溶け込ませています。その一方で私たち日本人は神の子・人間として神前でこの言霊を軽んじているのではないでしょうか。神に誓うという事は一大事なのです。なので罪を蔽い被っている人間、神性・仏性を晦ましている罪の子・人間はより真剣に真摯に素直に懸命に賢明に与えられた人生を生きていくしかありません。

そしてもし生命が完全に生きた生き方をしないと天国の門の外に立ち尽くす事にもなります。神はすべてを脱いで、置いて、切って、捨てて、放ってから広大無辺・遍照金剛の常に開かれた天門に入って来なさいという御声を私たちにいつも掛けて下さっているのに、当の私たちが執せる国(現象世界)にいつまでも執しているものだから、その御声が届かないのです。その状態で私たちがいくら天の門戸を叩き続けてもそれは無駄な努力です。反対にいかにも神が居留守をし、我々の呼び掛けに応答してくれない冷徹な親だとこちらが勘違いしてしまいがちです。

この世の現象界を生き渡る事に関しては不器用でもいいと思います。だからこそ生長(成長)のし甲斐が有りますup もっともっと神と対話をする時間を出来るだけ設けたいですねclock

それもこれもすべては、そのまま・このまま・ありのまま・あるがまま。すべては実相の観点からconfident

ありがとうございました。

再拝

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